ロンドン・オリンピック回顧② JURY

今回は審判の目立ったオリンピックになりました。

特に日本選手のかかわる試合でいろんなことが起きて、テレビや新聞等では審判のニュースや記事がおどりました。

最初の頃は毎日柔道の放送をしていましたから、そこでの「ジュリー制度の不手際」が目立ちました。確かに、オリンピックで最初に取り入れるには大きすぎた制度改革で、もっとほかの大会などで試行して「ジュリーの権限を明確にしてから」大舞台にのぞむべきだったと思います。

でも、レスリング競技でジュリー制度が機能しているのを見ると、制度自体が根本的な欠陥を抱えているとは思えなくなりました。

 

ボクシングでは日本選手の対戦相手に買収された審判が追放されましたが、そこまで露骨でなくても、そもそも「審判が目立つ」競技は面白くありません。審判は、選手が全力を出し切れるように、円滑な競技進行を第一に心がけるべきです。

私は、かつてバレーボールの公式審判員でした。(大学連盟で資格をもらうと東京都C級として笛を吹くことができましたが、その資格は毎年更新する必要があり、今は失効しています。)審判をしていると、自分でも「一方のチームに肩入れしそうになる」ことに気づきます。人というのは、そういうものです。それゆえになおのこと、なんとしてでも公平・公正にジャッジしようと自分をコントロールします。そうして初めて、円滑に競技を進めることができます。

 

プロ野球で、今年ホークスから巨人に移籍した杉内投手が「あと一つのストライクでパーフェクト(完全試合)」というところで、ギリギリのコースの投球をボールに判定されました。私は、たまたまリアルタイムで観ていて、「公平・公正であろうと努力する主審」の苦悩を感じました。アメリカの大リーグであれば、主審は踊りながらストライクをコールしてゲームセットのお祭り騒ぎです。

 

日本人は、公平・公正があると信じています。

でも、世の中は不条理で、普通は公平・公正はありません。

 

ロンドン・オリンピックに話を戻します。

女子サッカーの決勝戦でも微妙な判定が何回かありましたが、結局は「審判が勝利と判定するように」競技する者が勝つのが現実です。

その時、審判が目立っているのは、競技者にも観客にも納得できない何かがあるわけですけれど、神様や仏様のような判断力を持たない人間がやっていて「そもそも公平・公正な審判などあり得ない」と割り切ることが必要なのでしょう。アメリカ人は、割り切ったうえで、審判の尊厳を大事にしています。

 

でも、やっぱりどこかで「誤審の報いは必ずあるぞ...」 って思ってしまうのは、私も日本人なんでしょうね。