ロンドン・オリンピック回顧① JUDO

メダリストのニュースは続いていますが、オリンピックの熱狂も一息ついたようです。

そろそろ回顧してもいいかなと思いました。

また、暑さが続くうちに書き始めようとも思いました。

たまたま朝早くに目覚めて、テレビの開会式中継をリアルタイムで観ました。そこから、私のロンドン・オリンピックは始まりました。

とても素敵なショーでした。イギリスの歴史絵巻を次々に演じていく構成が大好きでした。10年少し前に一度だけロンドンに行ったことがありますが、「やっぱりイギリス人は型を踏んでいく」と感銘しました。

 

その翌日から、夕食時間帯に柔道の中継があったので、当初は時差を感じることがありませんでした。でも、オリンピック後半になって興味のある競技がほとんど夜中になったとき、「柔道の試合時間が日本向けに設定されていた」ことに気づきました。

その日本が主役であってほしかった柔道ですが、やっぱりJUDOになっていました。

(審判の話は、次回、書きます。)

前回のオリンピックから「日本に有利なルール改正」があったはずだったのですが、残念ながら「力勝負の世界」に入ると、体重別の戦いであっても、日本人には不利かもしれません。

 

私に座禅を教えてくれた先生は、柔道の大家でした。ブルーの柔道着を見ることなく他界されたのは、ささやかな幸運であったかもしれません。

その先生は、「柔道は、判定なんかなくして、どちらかが一本取るまでやるものだよ」、「最初に組むところから始めればいい」と30年以上前から言われていました。今でこそ、多くの人が口にすることですが、国際的にそうはならないことも誰もが理解している通りです。

小柄な体格ながら、まさに「柔よく剛を制す」を体現された先生でした。

 

横綱白鵬が、とても興味深いことを言っていました。

横綱は、「何も持つところがないレスリングが、興味深い」という趣旨を言ったそうです。”まわし”だけをつけた相撲取りにとっては、レスリングは持つところがなく、柔道は持つところだらけなのでしょう。

で、JUDOは「相手の柔道着の、どこを、どう持つか」をあらそう競技になってしまいました。

「技の切れ」は二の次になり、あんまり面白くありません。

でも、興行の拡大を目指す国際柔道連盟にとっては、このような格闘技的な変化が望ましいとの報道もありました。

白鵬は、こうも言ったそうです。日本の柔道は出げいこをしないといけない、と。

世界を舞台にしてJUDOで戦うには、「お家芸」という視点は捨てて、世界標準を肌で感じ続けることが必要なのでしょう。

改めて、横綱のすごさを感じた次第です。

 

少しの甘酸っぱい郷愁を感じながら、中学・高校時代に体育授業でやってた柔道を思い出しました。

当時の山下泰裕のテレビを見て真似をし、足をひっかけて相手を倒しては抑え込み4人に勝ち、最後は一本背負いで5人抜きをしたことがあります。もちろん、みんな授業でしか柔道をやってないレベルです。

その一本背負いの時に、本当にタイミングだけで、ほとんど力を使わなかった記憶があります。「柔よく剛を制す」って感覚は、なかなか理解してもらえません。

ものすごい快感なんですけど...